『梅雨待ち雨蛙』をイメージして撮影に出掛けたが、『梅雨待ち』というよりは、“木洩れ日”のなかで何か考え事をしている雨蛙に出会った。
喉を小刻みに震わせている以外に動く気配を全く感じない。
周辺部の光周りも申し分なく、たとえ雨蛙でなくとも、そこに佇んでいるだけで『生きものとしての価値』は十分に伝わる雰囲気があったのでした。
水芭蕉の葉はもはや植物としての面影はなく、葉の形をしたオブジェのよう。それが幾重にもなり、互いにこすれ合う。
その支え合う葉の一番手前に彼は座り込んで、光が射してくる方を向いていた。
「梅雨待ちでなく、これは黄昏前の祈りの時間かな」なんて、つい此方も哲学的な想いを抱いて見つめるのでした。
光を求めて葉裏から表に出てくる虫をじっと待つ・・そう思うのが普通なのですが、蛙が浮かび上がり、背景にはおぼろげな光のカーテンが降りているとなると、「物語るような写真」を撮りたくなるのは誰しも考えつくことだろう。
カメラのファインダーでカエルのメンタマにピントを合わせているうちに、彼がなんだか達磨の横顔に見えてきた。
柔らかな光に包まれている間に静かにパシャリしたのでした。
RVP100 AI Micro-Nikkor105 f/2.8s NikonF3 3日撮影 阿賀野市
梅雨入り
この撮影の1週間後の昨日10日、新潟は梅雨入りした。この梅雨の間の晴れた朝に綺麗な朝焼けが見られることを期待している。
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