昨日は「夏越の祓」。
1年の半分が過ぎ、肉体や精神に溜まったデットックスを洗い流し、7月からの後半年を凜として迎えましょう・・ってな意味合いのある伝統日でもあった。
瓦を穿つ雨音に目が覚めた。
カーテンの閉め忘れた隙間からボワ~と灯りが忍び込んでいるのを朧気な視界に捉えながらも、しばらくは床に伏したまま雨音の流れに耳を澄ましていた。
だんだん気持ちが落ち着いていく。
起きたばかりで「気持ちが落ち着く」なんて表現はこの場合違うんじゃない・・と言われてしまいそうですが、ス~と何かが抜けていく感じは「落ち着く」なんです。
写真整理
半年を終えてようやく昨年撮り溜めたスリーブを整理した。
71本のフィルムを消費。
2017年97本、2016年89本だから消費数は相対的に落ちている。
昨年8月中旬にRICOH・GR2というコンデジを手にしてからのフィルム離れが加速した感じがしないでもない。フィルムの値上げも背景にある。
今年は6月末時点で29本(昨年同月46本)。
これをどう捉えるか。
風景写真はデジカメにシフトした部分が多分にある。しかし、「ここぞ」の時はフィルムに全てを託している。マイクロ撮影はほとんどフィルムだし。
でもだ。
デジカメのシャッターを押した分だけフィルムの消費数は減ったのだ。
実感が沸かないけど。
失敗写真でもそのまま記録されるフィルムと違ってデジカメだと気に入らないカットはその場でバンバン消去する。その差が「実感が沸かない」原因かも。
そうだ、フィルムだと目に見えるカタチで残るのにデジカメだと記憶媒体に記録される。つまり、目に見えない。
そのせいもあるかも。
掲載写真
6月20日、霧で視界が遮られる前の鳥屋野潟。
綺麗な澄んだ湖面と空でした。
司馬遼太郎の『街道を行く』シリーズの中の『潟のみち』で鳥屋野潟に触れている。取材したのは1975年の秋だったらしい。
そうであれば、あの頃の鳥屋野潟は四方から流れ込んだ生活排水で水質は悪化し、投棄されたゴミも淀みにうずたかく積まれていた。
彼は鳥屋野潟を表現するに「塵」という漢字を随所で使っている。
エビが生息するほどに復活した現在の鳥屋野潟を目にしていたなら、本の中の記述はどうなっていただろうな・と思ったりする。
RVP100 Ai-Nikkor 35f/2s NikonF3 鳥屋野潟
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